良いたより(ローマ1:16-17)
ローマのクリスチャンへの思いを15節で書き終えたパウロが次に書いたのは「良いたより」のことでした。人類の救いに関する教えは聖書において「良いたより」という語に集約されています。この箇所は良いたよりが何であるかを見事に要約しています。
1:16 わたしは良いたよりを恥じてはいないからです。
パウロは自分が神から託された良いたよりについて「それを恥じてはいない」と言っています。
ギリシャ文化が発展したローマという都市でキリストについての良いたよりを宣明するのは勇気のいることでした。人間的に見れば、良いたよりはガリラヤの僻地から生じた一つの思想にすぎず、当時の世界で最も進んでいたギリシャの哲学や科学や教養の前では愚かな思想として嘲笑されるようなものでした。実際パウロはこれをアテネで経験しており、(使徒17:16-34) おそらくコリントでも経験していました。(コリント第一2:1-5)
1:16 実際それは,信仰を持つすべての人にとって,すなわちユダヤ人を初めギリシャ人にとっても,救いのための神の力なのです。
確かに良いたよりは高度に理論化された哲学と異なり、人の知的好奇心を満たすような種類のものではありません。とはいえ良いたよりのすばらしさはそこではなく、罪によって死ぬはずの人類を永遠の滅びから救うことを可能にするという点にあります。これこそ「救いのための神の力」であり、これを可能にするのは良いたよりだけです。これを知っていたからこそパウロはたとえ愚かだと言われても良いたよりを恥じることがなかったのです。
わたしたちもパウロと同じ思いではないでしょうか。救いはユダヤ人だけでなくギリシャ人にも及びます。さらにギリシャ人だけでなくすべての人類にまで及びます。だれであれ神の救いの力を信頼するなら、パウロと同様良いたよりを少しも恥とは思わず、むしろそれを誇りに思うはずです。
1:17 信仰のゆえに,また信仰のために,神の義がその中に啓示されているのです。
良いたよりには神ご自身の義が啓示されており、良いたよりによって初めて人間には神から義なる者と認められる道が開かれます。良いたよりには神の力だけでなく神の義も明らかにされているのです。どのようにして神の義が啓示されたかについては、3章21節以降で考えましょう。
1:17 信仰のゆえに,また信仰のために,神の義がその中に啓示されているのです。
神の義は初めから終わりまで信仰を中心として実現されます。
まず「信仰のゆえに」とありますが、これはギリシャ語原文で「信仰から」となっています。神は人を義としてくださいますが、その条件は信仰です。信仰を持っていることを理由にして神はその人を義としてくださいます。「信仰のゆえに」とはそういうことです。
さらに「信仰のために」とありますが、これはギリシャ語原文で「信仰へ」となっています。神から与えられた義はその人の心にさらなる信仰を起こさせて信仰を深める働きをします。これが「信仰のために」です。
1:17 「しかし義なる者―その者は信仰によって生きる」と書かれているとおりです。
神の義が信仰を中心としていることはヘブライ語聖書でもいわれていることです。パウロはハバクク2章4節を引用してそれを論証しています。
ハバククの言葉の趣旨は「義なる者」、すなわち神との正しい関係にある者は、神への信仰によって生き、それにより滅びから守られて命を得るということです。
ハバククの言葉の趣旨は「義なる者」、すなわち神との正しい関係にある者は、神への信仰によって生き、それにより滅びから守られて命を得るということです。
良いたよりが「神の力」であって、人間の哲学とは異質のものであること。良いたよりが人間の「救い」を実現するものであって、単に人を教育したり人格を育成したりするためのものではないこと。「神の義」は良いたよりを通して表れるのであって、人間が自己の手段で神の義を勝ち取るわけではないこと。16-17節はまさしくローマ書の中心的な考えを要約したものといえます。
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