神とキリストの愛の絶対性(ローマ8:35-39)





31節から続いている一連の問いの最後がこの部分にあります。なお835-39節は321節以降論じられてきた個人の救いに関する教理の結論に該当する部分であり、論議の結びにふさわしい形となっています。




8:35 だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すでしょうか。

「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すだろうか」。これが五つ目の問いで、パウロは36-39節でこれに自ら答えを出していきます。

たとえ31-34節のような不動の祝福がわたしたちに臨んでも、もしわたしたちがキリストの愛を離れるならその瞬間にすべての祝福は消滅します。救いはキリストの愛がわたしたちのうちにあることを大前提としているからです。

しかしこの心配もまったく不要です。キリストの愛は深く、キリストとわたしたちの間を切り裂こうとする何者の存在も許さないほどに強いものです。キリストに対するわたしたちの愛が強いというよりわたしたちに対するキリストの愛が強いのです。




8:35 患難,あるいは苦難,迫害,飢え,裸,危険,剣でしょうか。

「患難」、すなわち外部から来る災難もクリスチャンに脅威となることはありません。

「苦難」、すなわち心に生じる苦悩もクリスチャンに力を及ぼすことはできません。

「迫害」、「飢え」、「裸」、「危険」、「剣」、すなわち命に必要なものに事欠く辛さや死の危険と隣り合わせになる恐怖についても同じです。パウロはこれらの苦しみをいやというほど知っていましたが、(コリント第二11:23-29) それでも苦しみに屈してキリストの愛から引き離されることは一時たりともありませんでした。






8:36 「あなたのためにわたしたちはひねもす死に渡されており,ほふられる羊のようにみなされた」と書かれています。

詩編4422節には迫害に苦しみながらもエホバに依り頼むイスラエル人の心情が表現されていますが、パウロはこの言葉を引用し、その状況とクリスチャンが実際に遭う苦しみが似ていることを示します。また迫害において神に依り頼む詩編作者の姿とキリストの愛から離れないクリスチャンの姿が似ていることも暗に示しています。




8:37 しかしその逆に,わたしたちは,わたしたちを愛してくださった方によって,これらのすべての事に全く勝利を収めているのです。

無力なわたしたちは苦しみを自分の力で勝ち抜くことができません。これに対する勝利はひとえにわたしたちに愛を注ぐ方の力によって可能となります。「わたしたちを愛してくださった方」とは35節とのつながりから考えてイエス・キリストでしょう。「愛してくださった」と不定過去形で述べられているのは、この方が人となって地に来られたことやわたしたちのために死んでくださったことなど、過去に表されて動かぬ事実となったキリストの愛を強調するためと思われます。

キリストの力を受けたわたしたちは、苦難を忍ぶにとどまらずそれを完全に征服してなお余りあるほどに強められます。「全く勝利を収めている」と訳されたギリシャ語hupernikaóは「勝利者以上の」という意味を含んでいます。キリストはわたしたちの中に力を注ぎこみ、わたしたちがどんな逆境に対しても圧倒的な勝利を得るようにしてくださるのです。




8:38-39 死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,来たるべきものも,力も,高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信しているからです。

困難はもとより天と地にあるどんなものもわたしたちを神とキリストから引き離すことはできません。神の愛とわたしたちはもはや一寸も分け隔てることのできない絶対不可分の関係にあります。これこそわたしたち人間が地上で到達しうる最高の霊的境地です。

「死」も「生」も、つまり人生のどんな局面も神の愛からわたしたちを引き離しえません。死んで生き返った方であるキリストがすでに死と生を征服されたからです。




8:38-39 死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,来たるべきものも,力も,高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信しているからです。

「み使い」も「政府」も「力」も、つまり天地のあらゆる威力ある存在もわたしたちを引き離しえません。神の右にいるキリストがすべてに勝る権威を握っておられるからです。




8:38-39 死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,来たるべきものも,力も,高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信しているからです。

「今あるもの」も「来たるべきもの」も、つまり永遠の時間の流れのどこにあるものもわたしたちを引き離しえません。




8:38-39 死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,来たるべきものも,力も,高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信しているからです。

「高さ」も「深さ」も、つまり広大な空間の広がりのどこにあるものもわたしたちを引き離しえません。




8:38-39 死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,来たるべきものも,力も,高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信しているからです。

そしてここに列挙することのできない「ほかのどんな創造物」も神の愛からわたしたちを引き離すことはできません。これがクリスチャンたる者の確信です。




35節で「キリストの愛」と述べられていたものがここに及んで「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛」に置き換わっていますが、これはキリストの愛と神の愛が究極のところ一つであることを示唆しています。神はご自身の愛のすべてをイエス・キリストによって具現されるため、キリストにおいて示された愛は神から示された愛と見ることができるということです。




信仰の頂点はキリスト・イエスのうちにある神の愛に生きることです。たとえ贖いや永遠の命があったとしても、そこに神の愛が存在しないのであれば、その救いはまったくもって無味乾燥なものです。あるいはもしわたしたちが救いの結果だけに目を注いでキリストの愛を忘却するなら、その信仰もまた無意味なものに成り下がるでしょう。ローマ書は人が信仰によって救われることを教えていますが、この救いの本質はすなわちキリストによって示される神の愛の中で生きることなのです。

神の愛は無限で強大であるゆえにどんな力もわたしたちをこの愛から遠ざけることができません。わたしたちに求められるのは、神とキリストの愛に全力で注意を向け、感激し、心をささげ、完全に没入してしまうことです。この愛に生きる者こそが救われた者です。