偶像崇拝①(ローマ1:18-20)





118節からがいよいよローマ書の本文です。ローマ書を大きく五つの部分に分けると、11-17節が前文、118節から320節までが罪に関する教理、321節から11章までが救いに関する教理、12章から1513節までが実践の勧め、そして1514節から16章までが後文となります。




救いの教理の前に罪の教理が論じられているのはなぜでしょうか。それは救いが罪の許しにほかならないからであり、その救いの重要性を理解するためには、まず自分が罪人であることを深く認識することが不可欠だからです。

罪に関する教理の部分は、だれの罪を論じているかという観点で118-32節、2章から38節まで、39-20節の三つに分けることができます。

2章から38節まではユダヤ人の罪を、39-20節は全人類の罪を論じていますが、118-32節については、だれの罪を論じているかという点で一般的に見解が分かれます。「諸国民の罪」という見解と「人間一般の罪」という見解です。

ただし2章から38節までがユダヤ人の罪を指摘した部分であることを考慮すると、118-32節は諸国民の罪を指摘していると考えるほうがよいと思われます。そうするとパウロが最初に諸国民、次にユダヤ人、最後に両方合わせた全人類を断罪しているという話になり、その後の論述ともよく調和します。実際パウロが3章9節の段階で「わたしたちはすでにユダヤ人もギリシャ人も罪人だと告発した」と述べていることを考えると、38節までの部分で告発されているのは、ユダヤ人の罪とギリシャ人(諸国民)の罪であると判断するのが合理的です。




それでここからは118-32節を諸国民の罪を論じる部分と解釈して注解を進めることにします。




1:18 神の憤りは,不義な方法で真理を覆い隠している人々のあらゆる不敬虔と不義とに対して,天から表わし示されているのです。

16-17節には良いたよりによってわたしたちのために神の義が示されたとありました。しかしなぜ神の義が必要なのでしょうか。その理由は神の憤りが現にこの世に対して表されているという点にあります。

神はいまやご自身の王座である天から罪深い人類の上に怒りを注いでおられます。人類がこの怒りから逃れる道は神から義と認められること以外になく、神から義と認められる道は良いたよりをおいてほかにありません。

ここでわたしたちは神が憤られるという事実に憤慨しないようにしなければなりません。人間は自己の利益のために怒りを発することが少なくありませんが、神は常に愛と正義のために怒りを発せられます。神は人類がご自身から背き離れることを堪えがたく思うほどに人類を深く愛する方であり、またご自身が創造した世界に少しの不義が存在することも見過ごせないほどに義なる方であります。この愛と義こそが神の聖なる怒りの動機なのです。

ですから神の怒りは神の愛と義を損ねるものではなく、むしろ神の愛と義がどれほど確かなものであるかをわたしたちに教えてくれるものといえるのです。




1:18 神の憤りは,不義な方法で真理を覆い隠している人々のあらゆる不敬虔と不義とに対して,天から表わし示されているのです。

神の憤りを受けるのは「不義な方法で真理を覆い隠している人々」です。これらの人たちはだれにも邪魔されずに悪を行えるよう真理の働きを妨げようとさえします。そのため神の憤りはますます彼らに対して燃え盛ります。

神はこれらの人たちの態度を「不敬虔」で「不義」なものと見なされます。「不敬虔」と訳されたギリシャ語asebeiaは「神への崇敬の欠如」を表し、「不義」と訳されたギリシャ語adikiaは「隣人への不正な行為」を表します。不敬虔で不義な者たちとは、神と人との両方に対して悪を行う人たちのことなのです。




1:19 神について知りうる事柄は彼らの間で明らかだからであり,神がそれを明らかにされたのです。

しかしある人は言うかもしれません。「律法を授かったユダヤ人と違って諸国民は神からの啓示を受けてこなかったのだから、多少の不義や不敬虔は仕方ないのではないか」と。

人間が神を知り尽くすことができないのは確かですし、諸国民がユダヤ人のように神からの特別な啓示を受けてこなかったことも事実です。それでも神は諸国民がある程度まで神についての真理を知ることができるようご自身を明らかにしてこられました。にもかかわらず神が示された真理を覆い隠して悪にふけるのは許されない行為です。神の怒りが下るのは仕方ありません。




1:20 というのは,神の見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。

神はどんな手段で諸国民にご自分を現してこられたでしょうか。「造られた物を通して」です。

聖書は「天は神の栄光を告げ知らせ、大空はみ手の業を語り告げている」と述べています。(詩編19:1) 神の存在も性質も目には見えませんが、創造物がこの世界の初めから神の性質をわたしたちに明らかにしてくれています。わたしたちは生まれつき持つ自然な心の働きによって神の諸々の性質を知ることができるのです。

創造物を通して知ることのできる神の性質とはすなわち「とこしえの力」と「神性」です。

神の「とこしえの力」は天地の創造の際に示され、いまなお示されています。自然界は永遠に変わることのない神の力を証しし、わたしたちがこの方に畏怖の念を抱くべきことを悟らせます。

「神性」とは神が神たる方であることを示す性質のことです。わたしたちは創造物を観察することにより創造者の存在を確信し、この方だけが崇拝を受けるにふさわしい神であることを悟ります。




1:20 というのは,神の見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。

神は創造物を通してご自身を現されました。それは人が「自分は神を知らなかった」という口実を作って神の怒りを逃れようとすることができないようにするためでした。

創造物が神の栄光の表れとなっていることは人種や文化や社会的身分にかかわりなくだれもが認めることのできる事実です。ゆえに諸国民であっても、神についての啓示がないことを理由に自分の不敬虔と不義を弁解することは許されません。