キリストにある死と命①(ローマ6:1-5)
ローマ書の全体的な流れから解説すると、3章21節から5章までが罪の許しを受けて義とされることを説いた部分となっていました。再三強調されているのはその祝福がわたしたちの行いによらずに与えられたいうことです。
ではそうして義とされた以上自分の日々の行いについてはもう無頓着であってもよいということでしょうか。そうではありません。義とされた者が当然生み出す結果としてその日々の行いは聖なるもの、神の霊に導かれたものとなっていくはずなのです。救われて聖なる者へと変化し、神の奴隷として霊によって歩むこと。これが6章から始まる部分のテーマです。
パウロは1-11節で義と認められた者の人生をキリストと重ね、わたしたちがキリストと同じように生きるべきことを教えています。
6:1 そこで,わたしたちは何と言えばよいでしょうか。過分のご親切が満ちあふれるために,罪のうちにとどまるべきですか。
ここでわたしたちに重要な問いが投げかけられています。
「もし人が律法の業と関係なくキリスト・イエスの贖いによって義とされるのであればどうだろうか。行いなど気にしなくてよいということではないか。罪が増すことで『過分のご親切が満ちあふれる』のであれば、わざわざ罪を犯すまいと奮闘する必要などないではないか。それだけ神の賜物も多く受けられるのだから」。
6:2 断じてそのようなことはないように! わたしたちは罪に関しては死んだのですから,どうしてなおもそのうちに生きつづけてよいでしょうか。
ある人は5章20節を受けて上記のような問いを発するかもしれません。しかしながらこれは罪の許しの原則を正しく理解しない人が投じる疑問です。信仰ゆえに義と宣言された者は「罪に関しては死んだ」のです。言い換えると罪の支配する領域から脱出し、その世界にはもう存在しない者となっているのです。このような意味で罪と無縁になった者はもはや罪の支配下にいるはずがなく、罪の中にとどまって生きること自体が不可能です。よって1節のような問いすら起きないのです。
もちろんクリスチャンとなった者が二度と罪を犯さなくなるという意味ではありません。個人レベルでの罪との戦いはありますが、根本的な罪、すなわちアダムの罪に起因する支配からは解放され、神から無罪と認められているということです。
6:3 それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。
罪との関係では死んでいるという事実を理解させるためにパウロはここでバプテスマの話をします。ローマのクリスチャンたちはすでにバプテスマを受けており、その行為にどのような意味があるかを知っていたはずです。
6:3 それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。
形式上バプテスマとは人を水の中に沈めることです。「バプテスマを受ける」と訳されているギリシャ語baptizóも語源からいうと「水中に浸して洗う」ことを指しています。
もちろん重視すべきなのはバプテスマの形式よりもその行為が表す意義です。バプテスマは確かに水に沈められることですが、それは信仰によってキリストの中に沈められ、この方と結ばれて一つになることを意味するものなのです。パウロが「水へのバプテスマ」ではなく「キリスト・イエスへのバプテスマ」と言っていることにはそういう意図があるのでしょう。
6:3 それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。
キリストと結ばれたということは当然キリストの死とも結ばれたということを意味します。これが「キリストの死へのバプテスマ」です。バプテスマを受けたクリスチャンは全面的にキリストと一つになり、この方と同じように生き、また死ななければなりません。
キリストと同じように死ぬとは具体的に三つのことを指します。第一はキリストと同じように杭につけられて死ぬこと、第二はキリストと同じように葬られ、よみがえらされること、第三はキリストと同じように再び生きるようになることです。6-7節、4-5節、8-11節の順にこの三つが説明されています。
6:4 ですから,彼の死へのバプテスマを受けたことによって,わたしたちは彼と共に葬られたのです。
水に沈められるバプテスマは人が死んで土に埋葬されることを連想させるものでもあります。死へのバプテスマを受けた人は信仰によってキリストとともに葬られ、確実に死の状態に入ったことになります。キリストの死はこの方と結ばれた者にとって自分自身の死にほかなりません。
6:4 それは,キリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたのと同じように,わたしたちも命の新たな状態の中を歩むためです。
とはいえクリスチャンは永久に葬られるために死ぬのではありません。父なる神はキリストを復活させ、死の支配を打ち負かす全能の力を示して栄光を表されました。その結果キリストはいま生きておられます。
これと同じようにクリスチャンの死も新しい人としてよみがえるための段階にすぎません。霊的に復活し、罪のうちを生きていたころとはまったく違う「命の新たな状態の中を歩む」ようになるのです。新しい命は単にバプテスマを受けるだけでなくバプテスマの意義どおりキリストとともに死んで葬られることを決心する者に与えられます。
6:5 彼の死と似た様になって彼と結ばれたのであれば,わたしたちは必ず,彼の復活と似た様になってやはり彼と結ばれるのです。
「キリストのように葬られる者はキリストと同じようによみがえらされる」というのが4節の趣旨でしたが、5節はさらなる説明としてわたしたちが「キリストと同じような『姿で』よみがえらされる」ことも述べています。キリストにしっかり結ばれるなら、復活してキリストと似た姿に変えられるという栄誉が与えられるのです。
「結ばれた」と訳されたギリシャ語sumphutosのもとの意味は「接ぎ木されて一緒に育った」です。クリスチャンはキリストに接ぎ木された者であり、生命をともにする存在です。ゆえに霊的な意味で死を一度経験することによりキリストと同じ道をたどることも必至なのです。
最新の投稿
賛美(ローマ16:25-27)
雄大無比の賛美文によってローマ書が締めくくられます。この賛美の中には ローマ書全体の主要な考えがすべて含まれています。 25-27 節はギリシャ語原文上でも難解で、翻訳も困難を極める箇所ですが、分解しながら考察することにより以下の主要な事実を読み取ることができま...
