肉と霊①(ローマ8:1-4)





人間の肉は罪の下にあるため有罪と死の宣告から逃れることができません。しかしイエス・キリストの贖いによってわたしたちは罪に対して死に、神に対して生きる者となりました。そして死ぬべき肉の体から救われてイエス・キリストのものとなりました。

以上のことが6章から7章までで論じられていました。81-11節はこの論議を受け、霊に従って歩むことがわたしたちにとって必要不可欠であることを教えます。

1-11節で特に目に留まるのは、「肉に従うか霊に従うか」、「死か命か」といった鮮明な対比です。これらは常に二者択一です。人間は肉と霊のどちらかを選ばなければなりません。どちらにも属さないという中途半端な立場はありえません。この事実はクリスチャンが徹底して霊の導きに従うべきことを教えるものとなります。




8:1 こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。

81節が直前の725節とつながっているのであれば「こういうわけで」ではなく「しかし」で始まるはずです。725節は「わたし自身は肉においては罪の律法に対する奴隷である」という言葉で結ばれていますが、81節は逆のこと、すなわち「わたしたちはもはや罪の宣告の下にはいない」ということを言っているからです。

そこでこの「こういうわけで」という接続詞はむしろ6章から7章までの議論全体と8章をつなげる言葉と見なすべきです。6章以降ではクリスチャンが罪に対して死に、神の奴隷とされ、律法から解かれてキリストのものとされたことが論じられていました。これらの祝福がさらに進展する様子を8章で見ることができるわけです。




8:1 こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。

クリスチャンはいまや罪の呪いから解かれ、神の裁きによって罪に定められることがなくなりました。罪に対して死に、人を罪に定める律法とも縁を断ったからです。その結果クリスチャンは肉の人とはまったく異なった存在となったのです。

パウロはクリスチャンのことを「キリスト・イエスと結ばれた者」と表現しています。ギリシャ語原文に沿って正確に翻訳するとこれは「キリスト・イエスのうちにある者」です。「結ばれた」と訳されているギリシャ語enは英語でいうところの「in」だからです。

「結ばれた」というと外的な結合を連想しますが、「うちにある」というのはもっと深い交わりを、内的に一体となっている様子を指します。この状態こそがイエス・キリストによって義と宣言された者があずかりうる至上の幸福です。






8:2 キリスト・イエスと結びついた命を与える霊,その霊の律法が,あなたを罪と死の律法から自由にしたからです。

肉に支配された人はいつまでも「罪と死の律法」の影響下にあります。ここから解き放たれる唯一の方法はキリスト・イエスとの交わりにおいて生きることです。そこには永遠の命の源である神の霊の支配、つまり「霊の律法」が働いているからです。

肉は罪の奴隷となっているため本人の心もそれを服従させることができません。そのため神の律法が正しいとわかっていながら罪に従ってしまうという不本意な状態が生じます。しかし神の霊に従うようになった者は、聖霊の導く方向が心の願う方向と調和していることを感じ、平安を覚え、活気を取り戻します。神の霊に服従しているにもかかわらず「自由にされた」と述べられている理由はそこにあります。

そしてこの自由を得た最高の状態でわたしたちは肉の思いと戦い、確実に勝利を収めることができるのです。




8:3 肉による弱さがあるかぎり律法には無能力なところがあったので,神は,ご自身のみ子を罪深い肉と似た様で,また罪に関連して遣わすことにより,肉において罪に対する有罪宣告をされたのです。

罪を処罰することは律法が果たすべき任務でした。しかし律法にはそれを成し遂げる力がありませんでした。むしろ罪のほうが律法より優位に立ち、本来律法に従うべき人間の肉を容赦なく屈従させて律法に逆らわせていたのです。律法が罪を処分できなかったのも当然です。




8:3 肉による弱さがあるかぎり律法には無能力なところがあったので,神は,ご自身のみ子を罪深い肉と似た様で,また罪に関連して遣わすことにより,肉において罪に対する有罪宣告をされたのです。

そこで神は御子イエスをこの世に遣わし、御子の肉を苦しみの杭につけることによって罪の下にある肉を処分し、律法ができなかった罪に対する処罰を実現されました。これによって神は罪と死からわたしたちを解放してくださったのです。

3節では御子がどんな姿で、そして何の目的で遣わされたのかが詳しく説明されています。




8:3 肉による弱さがあるかぎり律法には無能力なところがあったので,神は,ご自身のみ子を罪深い肉と似た様で,また罪に関連して遣わすことにより,肉において罪に対する有罪宣告をされたのです。

まず遣わされた姿については、「罪深い肉と似た様で」とあります。

御子イエス・キリストは生身の人間と同じ肉の姿でこの世に来られました。肉には罪を犯しやすい弱い性質があります。もちろんキリストご自身は罪の下になく、罪を犯すことはありませんでしたが、それでもわたしたちと同様に肉の誘惑を受けやすい性質の体で現れてくださったのです。(ヘブライ4:15




8:3 肉による弱さがあるかぎり律法には無能力なところがあったので,神は,ご自身のみ子を罪深い肉と似た様で,また罪に関連して遣わすことにより,肉において罪に対する有罪宣告をされたのです。

また遣わされた目的については、「罪に関連して」と書かれています。

キリストは罪を裁き、その支配力を滅ぼして完全に取り除くために来られました。無能力な律法と違い、御子は無限の力を及ぼして罪を征服されたのです。




8:4 それは,律法の義の要求が,肉にではなく,霊にしたがって歩むわたしたちのうちに全うされるためでした。

こうして肉を従わせることができなかった律法の当初の目的がようやく達成されます。まさに父なる神は「律法の義の要求がわたしたちのうちに全うされる」よう導くために独り子を世に送ってくださったのです。

キリストは肉体において死なれましたが、これにより肉に支配されたわたしたちの体も死にました。ゆえに信仰によってキリストと一つになった者はもはや罪深い自分の肉にも、善を願うことしかできない自分の心にも従いません。ただわたしたちのうちに宿る聖霊に従って行動します。