全人類の罪②(ローマ3:19-20)
3:19 さて,わたしたちは,律法の述べる事柄はみな,律法のもとにある者たちに対して語られていることを知っています。
10-18節に対し、「自分はそんな罪など犯していない」と言う人もいるかもしれません。律法を厳格に順守していたユダヤ人の中にはそう考え、これを諸国民のみに当てはまるものと解した人もいたことでしょう。
しかしヘブライ語聖書がそもそも「律法のもとにある者たち」、つまりユダヤ人に向けて語られたものであることを忘れてはなりません。10-18節で引用されていたのはすべて「律法」すなわちヘブライ語聖書の言葉です。したがってユダヤ人は指摘されている罪が自分には当てはまらないと言い張ることができないのです。
3:19 それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するようになるためです。
そうであれば諸国民はもとよりユダヤ人も、10-18節に引用された言葉に対して何も反論できず、もはや神の前に沈黙するしかありません。呪いと苦い言葉で満ちた口も、誇りに満ちた口も、すべてふさがれなければなりません。
ここで「すべての口」や「全世界」という包括的な言葉が用いられていることに注目してください。何度も繰り返しますが、すべての人が有罪の裁きを受けているのです。一人残らず神の刑罰に服さなければなりません。わたしたちはみな自分の罪を深く自覚しなければならないということです。
もし自分の努力によって罪に打ち勝つ者がいるとすれば、あるいはもし律法の業によって神に義と宣言されうる者が一人でもいるとすれば、苦しみの杭によるキリストの贖いの意味はなくなってしまいます。しかしながらもし律法の業によって人間がだれ一人神の前に義とされないのであれば、キリストの贖いは絶対に必要な唯一の救いの道であることになります。
そういうわけで律法を行う者も行わない者もみな等しく罪人であるということはクリスチャンにとってとても重要な事実なのです。わたしたちはこの事実を軽視しないようにしたいものです。
そういうわけで律法を行う者も行わない者もみな等しく罪人であるということはクリスチャンにとってとても重要な事実なのです。わたしたちはこの事実を軽視しないようにしたいものです。
3:20 したがって,律法の業によって肉なる者が神のみ前で義と宣せられることはありません。
全人類が罪の下にあるため神の前で義人と認められる者は一切存在しません。律法の命令に従ってこれを忠実に実行するユダヤ人であってもです。
ちなみに律法の規定を順守する行為のことをパウロは「律法の業」と表現していますが、これはローマ書とガラテア書で度々登場する表現で、常に「信仰」と対比する形で出てきます。「律法の業」とはすなわち神の霊によらず自分の力で律法を守ろうとする努力のことですが、その努力をもってしても「肉なる者が神のみ前で義と宣せられることはない」というわけですから、しょせん律法は人間に罪の許しと神の是認をもたらす点でまったく無力であるということになるのです。
3:20 律法によって罪についての正確な知識が生じるのです。
かえって律法は人を神の前で罪人とします。律法により人は自分が神の基準に到達できない現実を直視させられ、一層罪深さを自覚させられるのです。この自覚こそがここでいう「罪についての正確な知識」です。
もちろん罪深さを思い知らされること自体は何ら望ましい感情を生むものではありませんが、罪の自覚が正しく作用すれば、それは神の義を熱烈に求める動機となり、ひいては神の前で義と認められるという望ましい結果に通じます。
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